04.30.07:08
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03.12.03:56
最近良く映画を観るんです。
チーム・バチスタの栄光、スウィーニートッド、君のためなら千回でも、恋空、再会の街で、グミ・チョコレート・パイン・・・ DVDだと、その時は彼によろしく、東京タワー、シュガー&スパイス、ゆれる、サッド・ヴァケーション・・・ 覚えてる限りだとこんなもん。 この中でも特に良かったのが、君のためなら千回でもとゆれるの2つ。 君のためなら千回でもはアフガニスタンが舞台の映画で、ロシアの侵攻により亡命した裕福な家の子が少年時代の罪を抱えながらも成長し、最後にその罪と向き合うといったような話。 この映画では人の持つ本質的な弱さが純粋な強さによって描かれている。 光をもって闇を描くというような。 この映画では自分が正しいと思うことを貫く強さと同時にその正しさに含まれる矛盾というものが同時に出てくる。 簡単に言うと正しさなんて時代、国、宗教、主義などによっていくらでもその形を変えるということ。 例えばアフガニスタン人である主人公はアメリカに亡命後に家庭を持ち安住の生活を続けるが、アフガニスタンは共産国家の侵攻により秩序は乱れ、それに対抗しようとするタリバンが事実上の政権を握っていた。 主人公は親友に対する罪滅ぼしからその息子をアメリカに連れてこようとして収容されていたアフガニスタンの施設を訪れる。 そこの管理者との話の中で定期的にタリバンに施設の子供を売って金を得ているという話を聞いた主人公は「管理者なら子供を守るのが使命だろ!」と激昂する。 しかし管理者は「俺は全財産をはたいてこの施設を作った。一人の子供を売ることで二百人の子供を救うことが出来る。お前はアフガニスタンを捨てて出て行った身で良くそんなことが言えるな!」とやり返す。 これはどちらが正しいとはもう言えない。 イマジンじゃ埋まらない溝。 この映画のタイトル“君のためなら千回でも”は物語の始まりと終わりに象徴的に使われる台詞だが、終わりの台詞は初めの台詞に比べ少しかげりを感じた。 ここにこの溝を埋めるヒントがあったように思う。 まあ詳しくは映画館へ! ゆれるはサイコサスペンス的な映画で結末が二通りに取れるようになっている。 この結末については色々なところで議論されていたが、概ね実際には殺していなかったんだろうということになっていた。 でも俺の意見は真逆で、自分が父にも兄にも愛されていた過去を改めて認識したことによって自分を責めるような現実を作り出したんじゃないかと思う。 その根拠として手首の傷の治癒具合があまりにも進んでいたから。 とまあネタばれしないように書いてるからこれだけじゃ意味不明だろうけど詳しくはTUTAYAへ! そしてメンバーの紹介は次回へ! PR
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